Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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#現代思想 稀少価値のある見解なので記録として。なおここでは #ドゥルーズ に対する #ソーカル たちの批判の妥当性については問題にしていない。 もちろん稀少価値のある見解とは #千葉雅也 氏のそれを指す。
そもそもが、このような言葉を口にできる(書き得た)人間が他にいるとは思えない。事実他にいなかったはずである。
とはいえこれは本音の露呈だろう。他方ドゥルーズそれ自体はファッションなのではないか? または(少なくともある時期までは)ファッションだったのではないか? 別にそれはそれでかまわないが。
もちろん「ドゥルーズそれ自体はファッションなのではないか? または(少なくともある時期までは)ファッションだったのではないか? 」は千葉氏個人に対する言及でここではそれを超えて一般化していない。
https://twitter.com/dharmazeroalpha/status/914342764044800005
千葉雅也氏の同胞倫理的対内道徳に対して以下の記述が参照できる。ただしリンクしたブログには「私はラカンやクリステヴァの精神分析が重要な洞察を含んでいるという可能性にかなり懐疑的ではあるが、確信まではもっていない」とあるが私は今なおラカンは重要な洞察を含むと考えている。
http://skinerrian.hatenablog.com/entry/2015/07/10/001900
「同胞倫理的対内道徳」については #マックスウェーバー 『古代ユダヤ教』における部族的・共同体的同胞倫理(対内倫理と対外倫理の二項対立的分割)に関する記述を参照。つまり同胞に対する対内倫理と異邦人に対する対外倫理の分割と外部の排除である。
#ゲーデル の #不完全性定理 に関してはこちらも実際的な意味で参照可能。
http://amzn.to/2qALzF6
備忘録:ベルの不等式の破れが実証されたことで素朴な実在論は否定されたが量子情報の相関:entanglementは普遍的に認められた。仏教的に言えば自性無き空:śūnyatāすなわち縁起的宇宙の肯定。ここでは「非意味的切断」はサバイバル不可能。
上記は所謂「科学主義」またはその類とは全く関係がない。そもそも #ウィトゲンシュタイン が「科学」を語る言語ゲームと日常言語の両者を包括する「哲学」の言語ゲームの機能不全に愚直(誠実)にも苦痛を感じ続けたことを想起しなければならない。
 こんな難しい言い方をしなくてもいいのだが、とにかく「接続<過剰>だから非意味的切断が必要だ」とか「動きすぎては<いけない>」といった言い方は(懐かしの現代思想のはやり言葉で言えば)「人間的、あまりに人間的」。人間がこうした主張をすることは実は大変可笑しい。
「人間がこうした主張をすることは実は大変可笑しい。」言い換えれば「人間」だからこそこういった馬鹿馬鹿しい(しかし意味ありげな)言語行為を行える。実は「接続<過剰>」も「動き<すぎ>」もない。(非存在:non-being)しかしあえてこうしたことをいう裏に政治的な意図があればまた別の次元の話になる。


継続的に複数のアカウントを作成して自分自身の同一記事を自分でRTし続けている。これだけ頻度の高いほとんど同一内容で営業目的の投稿は一種のスパムだろう。入試制度への組み込みは資本主義ビジネスと不可分な既成事実化という含意を持つが上記サイトが『中動態の世界』『勉強の哲学』『観光客の哲学』の三冊を執拗に特権化していることに違和感。複数のMediaが組織的に連動しているようで無気味。知的な視野狭窄効果もある⇒下記のアカウント 
https://twitter.com/gensairyu
https://twitter.com/gensairyu2
つまらない誤解をあらかじめ避けておきたいが、上記論点は件の三冊に関する各自の評価とは独立したものである。仮に私が上記三冊(のいずれか)を主観的に大変価値評価していたとしてもそれとは独立な論点である。


これは「デリダ批判」ではない。私は概ね20歳から22歳にかけて集中的にデリダを読み込んだ(特に「声と現象」)。根源的時間化=空間化としての「差延」や「脱構築」という概念は重要だが決してデリダの独創ではない。多分デリダの独創といえるものはないと思われる。私が幸運だったのは、 #ハーバーマス の「コミュニケーション行為の理論」からデリダの読み込みへと移行する過程において、非常に優れた師(しかし不幸にも早世した)が主宰していたゼミでカントの「純粋理性批判」の読み込みを行うことができたことである。
「 #デリダ 的なエクリチュールのアーカイヴとしての無意識をイメージすることすら #フロイト の誤読でありうる。」ニューロラカン: 脳とフロイト的無意識のリアル 54頁。誤読、つまり #ラカン が「周到に回避している」(前掲書)「無意識の実体化」である。
「死の欲動がエントロピーであるとすれば、それの正負を考えることが無意味であるように、死の欲動、生の欲動という規定自体は、そもそも自我とそのリアリティーという観点がなければ無意味」『ニューロラカン』197頁。「死」「生」のイメージは余計な誤読を生む。つまり「生」「死」というイメージの無意味さは「自我とそのリアリティー」というそれ自体無意味な観点を前提している。だからこそ、始まりも終わりもない《不生不滅》の実践が、心身の全的な活動として至るところで繰り広げられることになる。
このような「無意識の実体化」(そもそもそれが「無意識」という言葉を安易に使わせているのだが)批判を聞かされても #デリダ は全くピンとこないのではないか? そもそも何を言われているのか理解できないかもしれない。根源的な時間化=空間化としての差延、グランメー(グラマトロジー)、エクリチュール、痕跡といった言葉がすべてフロイト、ラカンの「無意識の実体化」だと言われてもデリダはポカンとするだけかまたは「私こそがそれに抵抗してきたのだ」と言い張るだけかもしれない。


#想田和弘 氏に賛同したい。そもそも私はChange.orgを手放しで信用していない。「デモ」批判でデモが民衆に敵対とか言うのならファンドレイズされたものかどうかの精査が必要といった問題意識から見ると東浩紀の今回の「運動」は自己矛盾的である。もちろんここで彼がファンドレイズされた(疑いがあるから自己矛盾)などといったとてつもなくバカで皮相なことを言っているわけではないので念のために付記しておく。ここで言っているのはそんなことよりはるかに根本的なことである。例えば民衆の過去と現在と未来にとって。
再投稿:二項対立の一方の項として位置づけられたデモや投票だけを実体化して切り捨てるのは問題。論理的整合性も失われる。しかしそれを手放しで肯定してしまうのはそれ以上に問題。マクロレベルの戦略としてファンドレイズされたケースは個別に調査されるべき。
#東浩紀 「日本2.0」を参照。主張は一貫している。「 #改憲派 の未来志向(略)現に存在している自衛隊についての整合性を取って、憲法上の歪みを正し」つまり天皇の元首化のもとでの自衛隊の国軍化。なら投票可能じゃないのか?
https://twitter.com/dharmazeroalpha/status/917730775717486593
一口に #リベラル と言ってもバーニー・サンダース型リベラルとヒラリー・クリントン型リベラルを区別すべき。もちろん東浩紀の「改憲派リベラル」は後者。それは依然として #グローバリズム の範疇だ。しかも世界史的にすたれつつある。周回遅れのこの国ならまだ十分投票可能ではないか?
https://twitter.com/dharmazeroalpha/status/917923703156981760
「すごくメディアのポピュリズムに頼ってしまっている」⇒ポピュリズムがメディアの産物でしかないと全否定して切り捨てるのであれば(世界的には少数派=グローバリストの通念)「ポピュリズム」というメディア用語を使うべきではなかった。
周回遅れのこの国で今頃イデオロギー闘争(既に存在しない民進党と「極右」の希望の党とは違う等々)をしても意味はない。ヒラリー・クリントン型リベラル:改憲派リベラル( #グローバリズム の範疇)なら希望の党や維新にいくらでも存在する。
すでに一度示唆したが、この国で和製メディア用語の「ポピュリズム」という言葉を安易に頻発する人間はほぼ例外なく愚者である。だがそれを排除または否認のロジックに流用する者は馬鹿である以上に極めて有害である。より正確に言い換えれば、そうした排除や否認のロジックによる「ポピュリズム」という言葉の流用こそが、この国における「ポピュリズム」という言葉のありふれた使われ方なのだが。その点でも、現在彼ほどわかりやすい人間も珍しい。
東浩紀の例が典型だが、合弁事業になっている #ハフポスト と #朝日新聞 (執筆も担当) がAERA まで動員してほとんど同主旨の多重投稿的な状況を創り出しているのはメディア政治的な観点から問題がある。 #グローバリズム 志向の #リベラル に偏り過ぎている。
そもそも「最大野党」という一つのくくりで「民主党」と「民進党」を等値していいのだろうか? またそれ以前に鳩山小沢体制の民主党と菅野田(及び前原)以降の民主党を「最大野党」というくくりで等値していいのだろうか?
「リベラル」という一つのくくりで最大「野党」=民主党=民進党と等値するのもまずいのではないか? 鳩山小沢体制の民主党はバーニーサンダース型リベラルであり、菅野田以降の民主党はヒラリークリントン型つまりグローバリズム型リベラルである。東浩紀が支持できるのは後者だけだ。つまり菅野田以降の民主党(そもそも鳩山菅野田は与党政権)は厳密には「自民党の対抗勢力」とはもはや言いがたいものに変質してしまっていた。その前後の切断の問題を「最大野党」ということばでくくって消去するのはやはりまずいだろう。
切断の問題を再度述べるなら、鳩山小沢体制の与党政権はグローバリズムの改憲派リベラルとは言い難かった(鳩山氏の沖縄基地問題への姿勢と深刻な齟齬をきたす)のだから、東浩紀は自民党の対抗勢力としての「最大野党的ポジション」として鳩山政権をとても支持できなかったはずだ。
受験産業システムと一体不可分な入試システムというカップリングは、例えばメディア産業システムと一体不可分な選挙システムというカップリングとアナロジカルに分析可能である。 https://twitter.com/dharmazeroalpha/status/929699092384452608?s=17
言い換えれば「受験産業と一体不可分な入試システム」と「メディア産業と一体不可分な選挙システム」に共通する問題は著しい<知的狭窄効果>である。選挙前に執拗に流される政党支持率、政権支持率、政策支持率等の「世論調査結果」が「大衆創出=操作的」なマインドコントロール効果を持つことはMedia愚民以外には知られている。このMedia産業と選挙システムとの不可分な関係が受験産業と入試システムの関係にも妥当する。
受験産業システムと一体不可分な入試システムは、メディア産業システムと一体不可分な選挙システムとアナロジカルに分析可能。この点 #三浦瑠麗 と #古市憲寿 がそろって選挙特番を広告代理店に「やらされていた」のが象徴的。ニコ動では #東浩紀 とその周辺が選挙特番。大衆の政治マインドの管理。
上記「大衆の政治マインド」という表現は、より正確には「可能な限り速やかな<大衆>の政治的マインドセットの創出=管理」となる。


#現代思想 #哲学 岸政彦氏との対談を読 むと、 #國分功一郎 氏の「 #中動態の世界 」 とは、 #空性 を孕む、あるいは空性そのものつまり《 #空 emptiness》としての《 #縁起 》的世界における「この私」という行為(者)に接近しているように見える。 https://twitter.com/dharmazeroalpha/status/925138947981811712?s=17
#道元 は「有時」において「われを排列しおきて尽界とせり:自己は時々刻々の行為のプロセスとして自らを形成-配列していく。まさにその自己の展開プロセスにおいて《存在=時間》としての世界全体が創出される」と語っているが、この行為は能動でも受動でもない。
上記は、かなりの時間に渡って「有時」を始めとして「 #正法眼蔵 」の関連する複数巻をいくつかの優れた英訳も参照吟味した上での訳であり間違ってはいないと思われる。
参考:この実践の今は自己に去来するものではなく、また自己に出入りするものでもない。この今という道は実践の継続以前には存在しない。実践の継続が現実化するその瞬間が「今」と呼ばれるのである。
参考:自ずから現実化する実践の継続とは、まさに今実践を継続することにほかならない。この実践の今は自己によって本来的に所有されるものではない。
道元『正法眼蔵』「行持」
「椅子」というものの人間にとっての行為的意味に関して『人工知能の #哲学 』の松田雄馬氏と『 #正法眼蔵 を読む』の南直哉氏は本質的に同じことを語っている。椅子と行為主体との縁起的関係性は能動と受動との二項対立を越えている。
「無意識の存在は無意識の存在のために法を語る。では、なにを呼んで無意識の存在となすのか。それは、無意識の存在の語り(無情説法)を聴くものがそれである。では、なにを呼んで法を語ることとするのか。それは自らが無意識の存在だと知らないものがそれである。」
上記は道元の原文の訳。下記は以上抄訳の意訳「無意識の存在の語りを語り、その語りを聴くというありかたこそが、自らが無意識の存在だと知らないもののありかたなのである。そのありかたは法を語ることと異なることではない。それらは同じ出来事の過程なのである。」
「無意識の存在(無情)の世界は、意識ある存在(有情)の世界と入り混じっている」のだから、人間を含むあらゆる生命体を無情と呼んでも差支えない。人間こそ、自らが無意識の存在だと知らないものである。すなわち、一切衆生は有情も無情も包括する。
ここで「無情」とは、「脳」といっても、「身体」といっても、「物」といっても、「自然」といっても、「数式」といっても、「真空(エネルギー)」といっても、「Dブレーン」といっても、あるいは「量子揺らぎ」といっても、さらには「宇宙」といってもいい。
参考:入不二基義 『あるようにあり、なるようになる』254頁「「現に」という非時間的な現実性が、時間の一部(現在)に埋め込まれて「この今」となる」→「「この今」となる」という事態の創出は、「この私の行為」の創出であり自己の創出の端緒でもある。


批判的なtweetが多いかに見えるだろうが「批判」の意図はない。アーカイブ(記録)として。そもそも私はアンチではない。それどころか私は「ミル・プラトー」(特に序「リゾーム」「顔貌性」)を原書でかなり早期に(はるか昔に)読んでいる。また私がリスペクトする鈴木 泉氏と檜垣立哉氏とともに多分この国で最も早期に「差異と反復」の原書ゼミを行っている。
http://ja.whotwi.com/dharmazeroalpha/tweets/hashtag/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC
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#ドゥルーズ の #フランシスベーコン 論における肉と骨の二項対立的な序列化は極めて #カトリック 的に見える。
https://twitter.com/dharmazeroalpha/status/917891246038794241
科学主義的な観点からではないが、フランシス・ベーコン論においてドゥルーズが「情動が、つまり「感覚」が」と言い換えるとき、彼は例えば頭頂葉と大脳辺縁系との差異と関係についてどう考えていたのだろうか?
というのもドゥルーズは本書でしばしば「神経系統(に対する直接の作用)」や「脳」というフレーズと単語を使用するからである。現在ならむしろ下記のような生体(政治)工学的介入が切迫した問題となる。
https://jp.sputniknews.com/science/201705233662855/
参考情報 ドゥルーズのフランシス・ベーコン論における感覚、情動、神経系統といった用語との関連で。私は特に現象学を賞揚する者ではないが、ドゥルーズによる前掲書をはじめとする現象学の劣位化は真に受けない方がいいと思う。
https://mobile.twitter.com/dharmazeroalpha/status/918418044384288769
興味深いのは、その筆致から見ると #現象学 の相当な、もはや問題にならないかのような劣位化(同時に自らのポジションの相当な優位化)は、単に現象学との差別化戦略なのではなく、彼自身本当にそう信じていたようだということである。


道教 について
永澤 護·2017年12月13日水曜日·1分前表示245件

#道教 は、いまだかなりイメージに依存している。民衆あるいは庶民にとっては、それはほとんどすべてイメージに尽きる。従って道教においては究極原理あるいは究極目標(のイメージ)が設定される。 #朱子学 もこの系譜上にある。あらゆる実践はこの<究極的な終端>を持つ。よってあらゆる実践は、大局的に見ればこの究極原理あるいは究極目標にいたる手段的位置を占めることになる。
https://twitter.com/dharmazeroalpha/status/940391249906765824?s=17
道教がイメージ主体の(特定のイメージに依存した)体系である限り、手段としての実践と究極原理・究極目標の二項対立・二分法は残存し続ける。またこのイメージ主体の究極目的と手段:実践の二分法がある限り、それは現世利益的な功利主義と親和的になる。
証が修へと脱落し証と修との終わりなき転回過程へと巻き込まれていくとき、 #修証一等 という自己の身体の経験=現実が開かれる。
https://twitter.com/dharmazeroalpha/status/940505633010286592?s=17
つまりこの場合イメージ主体の究極目的と手段としての実践の二分法は完全に消え失せることになる。


東 浩紀 『観光客の哲学』Amazonレビュー 孟子的儒教主義とカルヴァン派(義父)のリアル
永澤 護·2017年6月23日金曜日·1分前表示22件
本書のテーマを要約するなら、誤配をスケールフリーの秩序から奪い返すこと、それこそが郵便的マルチチュードの抵抗の実践の基礎である、ということになるだろう。
本書に関して、最近私(以下N)は友人(同T)と短時間対話(チャットと一時間程度の対面による)したので、参考までに多少の改訂を加えた上で以下に転載したい。
以下転載開始
T:遅ればせながら『ゲンロン0』読んでます。
Nさんは読了して如何でしふたか?
私:いろいろ注文はありますが今多忙です。
T:ぜひお手すきのときに感想を聞きたいです。
私:会って話した方がいいでしょう。ここだと分からないかも。
T:まだ1部しか読み終わっていませんが。私の「注文」は2つです。Nさんの「注文」が聞きたいです。
ただ、2部で解消されるかもしれないので私の「注文」はとりあえずおいておきます。
私:2部を読んでからでもいいですが。
T:だと会えない可能性あり。
東氏の整理はあまりに人間中心的な思考に思えたのですが、哲学ってそんな感じなんでしょうか。とか聞く予定です。
それなら哲学の解体が必要だと思いました。
私:「哲学ってそんな感じなんでしょうか」⇒ちょっと違います。しかし同時に違うとも言えないという両義的な説明が必要です。もちろん違うんだけど結局は違わないとも言える。ちょっと複雑になるのでまたあとで。Tさんが言いたいのは、あまりに古典的なまたは従来型の人間中心思考に至ってしまうということですね。
T:人間中心思考なら論理的帰結としての二重構造は理解できるが、そもそも人間中心思考という発想そのものに違和感を感じる私です。哲学ってそんなものなら哲学の限界かなあと。
カント、ルソーに始まる現代思想の整理はわかりやすかったです。でも、その道具だと現代は斬れないとも思いました。あ、私の「注文」2つのうちの1つを言ってしまった。
「注文」の2つめは宗教理解の偏りです。もし世界の宗教がカトリックがすべてなら1部は完璧だなと。皮肉抜きに。
私:例えばカルヴァン派やグノーシス主義者に対して無力。
T:そのとおり。
私:世界を無際限の階層秩序あるいはハイパー・スケールフリーへと回収することに日々邁進しているエスタブリッシュメントのユニテリアンに対しても有効な誤配とその奪還の可能性はなさそうです。よくて単なるすれ違いになるでしょう。またパラダイムとして人工知能 は完全スルーです。「カリフォルニアイデオロギー」で片付けられていますが、かつてのフランクフルト学派的イデオロギー批判つまり文化論的文脈だけで対処するのは無理があります。
実はあそこで二項対立的に描かれた「郵便的マルチチュード」と「否定神学的マルチチュード」は必ずしも二項対立の関係にあるのではなく互換的なものとして機能し得る同じ《私たち人間》の世界に所属するのではないか。例えばそこでは「デモ」の集団と「観光客」の集団は必ずしも相互背反的なものではなく、互換的なものとして機能することが可能、またはいずれも機能しない、さらにはいずれかが機能するまたはしないというそれぞれの局面が偶発的なチャンスとしてあるのではないか。
家出してパリコミューンという渦巻く民衆に身を投じようとしたランボーは、最も過激であると同時にいい加減でもあるデモ的観光客であったと言えるでしょう。そのときランボーがデモと観光を横断する誤配を生み出したのかどうかは括弧に入れるとしても。また例えば(数字は比喩)観光客99%×デモ1%ハイブリッドの個人あるいは集団が今もその世界のどこかにいるのではないか。そうした出来事あるいは事態は、別に特別なものとは言えずむしろありふれたものでしょう。少なくてもその可能性または潜在性をあらかじめ排除することはできない。そしてその現実的な生成も。その個人あるいは集団のインターフェイスのあり方もさまざまあり得るし無数のすれ違いや失敗があり得る。たまたま少年ランボーの場合は後に大変著名になったのですが。
いずれにしても二項対立の一方の項として位置づけられたデモとその主体だけを実体化して一挙に切り捨ててしまうというのはかなり問題があります。それにより論理的整合性も失われます。しかしそれを手放しで肯定してしまうというのはそれ以上に問題含みかもしれません。マクロレベルの戦略または個別の戦術としてファンドレイズされたケースに関してはケースごとに調査される必要があるでしょうが。
T:東氏は「憐み」に期待していますが、カルヴァン派の憐みは統計学的な人間にのみ向けられるからあのモデルは破たんしちゃうと思うのですよ。ただしカルヴァン派であっても、同一クラスター内に向けての憐みであれば個人に向けられるので、シミュレーションしたらモデルが機能するかどうかは検証できます。彼に欠けているのはそれぞれの観光地の地理学または地政学です。
私:それに関して言えば、本書で彼は「他者」という言葉あるいはコンセプトをあたかも単なる流行り言葉であったかのように否定することで他の論者と自身との差別化を図っていますので。その差別化商品戦略のためのツールが「否定神学的マルチチュード」と「郵便的マルチチュード」の二項対立化による前者の排除です。「デモ」の排除はその派生物。
なお、本書が2017年度「観光立国推進基本計画」閣議決定と時期的にも全くリンクしたポジションにあることは別に問題ではありません。事実上政府とタイアップしていたとしても。観光立国は悪くありません。しかし急速に悪化する労働・雇用環境(全般的な非正規労働化)や制度崩壊をなんとかするべきだと考えます。
ところで「憐み」という言葉ですぐ想起されるのが『孟子』の「惻隠」の心(父と子の関係をモデルとする「他者を見ていたたまれなく思う心」)です。《ロシア正教的なもの》を入り口として拡張された「家族」の主張は、この国においては現代における一種の孟子的儒教主義の再興として機能すると言えるかもしれません。(例えばフェミニズムの観点からは結論としてのこの疑似儒教的家族主義は男性中心主義的さらには父権主義的と位置付け可能です。)ただそこでは本書が最終的にたどり着く「不能の父」と多分「革命」に挫折した孟子自身および彼の「易姓革命論(天命説)」の関係性が問われることになるでしょう。「不能の父」は革命に挫折しそれを不能化した孟子の肖像でもある。
T:(二部読了後のコメント)東氏の思想には養子への幻想があるのですよ。それを彼は誤配とか郵便的とか言っている。なぜ彼にカルヴァン派(義父)のリアルが見えないのかの理由もわかりました。
私:東氏の狙いはかなり明確に見えます。しかしこの点についてはここではこれ以上あまり議論したくありません。
T:その点については私からはもう考えは述べ終わったつもりです。養子への幻想のくだりで。(付記:このテーマに関するT氏のより踏み込んだ発言はここでは省略する)
なので議論したくないでオッケーです。
私:つまり何度読んでも同じ感想になるだろうという確認です。


無意志的記憶・人工汎用知能・<自己の身体>
永澤 護·2017年6月9日金曜日·1分前表示56件
『人工知能の哲学』松田雄馬著 先ほどから読み始める。22頁迄読了。 #プルースト の「無意志的記憶」が鍵になりそうな予感。
次世代 #深層学習 あるいはそれを超えた #人工汎用知能 実現に向けた今後の探求課題は<自己の身体>であるだろう。
人工知能の哲学
http://amzn.to/2sILRL4
以下引用
① 「実は「ニューラルネットワーク」というのは、あくまで(原文にはこの後「の」の文字があるが本来「も」である誤植と見なして不要と見なした:引用者付記)人間の脳の神経細胞のネットワークの構造を模しているにすぎないのであって、人間の脳の仕組みそのものを模しているわけではない。すなわち、人間の(汎用的な:引用者付記)「知能」を実現するものではないのである。」p.14
② 「「分類」を行う「ニューラルネットワーク」は、上記したように、数千数万という膨大なデータがないとりんごやみかんを「学習」できないため、一度口にしただけでその形や色や味や触覚に至るまで、すべてを「記憶」して思い出すことができる人間の「学習」の仕組みとは、根本的に異なるようにも思える。」p.22
参考:プルーストの「無意志的記憶」について(wiki「失われた時を求めて」)
http://bit.ly/2s1KZ6j
以下転載開始
『失われた時を求めて』は記憶をめぐる物語であり、その全体は語り手が回想しつつ書くというふうに記憶に基づく形式で書かれている[53]。プルーストは、意志や知性を働かせて引き出される想起(「意志的記憶」)に対して、ふとした瞬間にわれしらず甦る鮮明な記憶を「無意志的記憶」と呼んで区別した[2][13]。
作品の冒頭で、語り手は紅茶に浸った一片のマドレーヌの味覚をきっかけに、コンブレーに滞在していた頃にまったく同じ体験をしたことを不意に思い出し、そこから強烈な幸福感とともに鮮明な記憶と印象が次々に甦ってくる。「無意志的記憶」の要素は、それ以降物語の中にしばしば類似の例がちりばめられている[2]。
例えば、『ソドムとゴモラ』の巻で「心の間歇」と題された断章で、語り手は、バルベックのホテルに着いて疲労を感じながらショートブーツの(原文ママ)脱ごうとした瞬間、不意に亡くなったばかりの祖母の顔を思い出して、それまで実感できないままだったその死をまざまざと感じさせられるという経験をする[54]。
このような「無意志的記憶」の現象は、最終巻『見出された時』において、ゲルマント大公邸の中庭で敷石に躓いた時に、ヴェネツィアの寺院の洗礼堂でタイルに躓いた記憶が蘇り、第1巻のマドレーヌのときと同じような歓喜の感覚を再びすることによって、その幸福感の秘密が解明される[14][55]。それは、同じ感覚を〈現在の瞬間に感じるとともに、遠い過去においても感じていた結果〉、〈過去を現在に食い込ませることになり、自分のいるのが過去なのか現在なのか判然としなくなった〉ためで、この瞬間〈私〉は〈超時間的存在〉となる[14]。
私は理解した、文学作品のすべての素材は、私の過ぎ去った生涯であるということを。私は理解した、それらの素材は、浮わついた快楽や、怠惰な生活や、愛情や、苦痛などを通して私のところにやってきたものであり、私はそれをためこみながら、いずれ植物を養うことになるすべての栄養をたくわえた種子のように、これらの素材の使い方も、またそれが無事に生きのびるかどうかさえも、見通してはいなかったのだ。
— マルセル・プルースト「失われた時を求めて――見出された時」
語り手は、〈文学作品のすべての素材は私の過ぎ去った生涯である〉という認識とともに、自分の人生において経験した瞬間瞬間の印象を文学作品のうえに再構成し、音楽に匹敵する文学を書く決意を固めていく[14]。このような「無意志的記憶」を文学作品において登場させたのは、プルーストが最初というわけではないが[53]、こうした現象はしばしば「プルースト現象」あるいは「プルースト効果」という言い方で知られるようになっている[56]。
私は人間を、その肉体の長さではなく、かならず歳月の長さを持った者として描くだろう。(中略)私たちが「時」のなかに絶えず増大してゆく場所を占めているということは、みなが感じているのであり、この普遍性は私を喜ばせずにはいなかった。
— マルセル・プルースト「失われた時を求めて――見出された時」
以上転載終了
さらに、関連して以下の過去記事の記述を参照
以下転載開始
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人工知能の核心 (NHK出版新書 511) 新書 – 2017/3/8
#羽生善治 (著), NHKスペシャル取材班 (著, 編集)
http://amzn.to/2qEtvc7
における羽生 善治氏の以下の発言(極めて優れた洞察)も参照。
以下の引用における羽生氏の
「人間は、他にもヘリコプターや飛行機のような、ドローンではない(《non A》=無限判断領域:引用者付記)空を飛行する存在を知っています。おそらく、そうした知識をうまく組み合わせて、答えを導き出しているのだと思います。しかし、こういうことは、まだ人工知能が苦手とする部分です。個人的には、ここがクリアできると、だいぶ人工知能やロボットが人間に近づくのではないかと感じています。」
という洞察は、上記「《non A》という無限判断領域」というテーマとの関わりで決定的に重要な意味を持つものだと思われる。
以下引用(前掲書 p.170-171)
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最近知って面白かった話に、「人工知能はまだ『学習』と『推論』を同時にこなせない。」というものがありました。例えば、ドローンが空を飛んでいる姿を見て、人間ならばせいぜい二、三機も見れば、次の対象を知覚したときに、「これはドローンだな」と、「推論」できるでしょう。数少ないケースやパターンで特徴を抽出できるのは、人間ならではの能力です。
 翻って、人工知能はどうでしょう。
 人工知能は、ビッグデータなしに学習できません。推論できるのはその後です。つまり、ドローンの画像を何百万、何千万枚と読み込ませて事前に「学習」を終えて、初めて「これはドローンだ」と「推論」できるのです。
 なぜ人間には、「学習」と「推論」をスムーズに同時に行うことが可能なのでしょうか。
 そこには、人間が複数の概念を組み合わせて理解する能力を持っていることが影響している気がします。人間は、他にもヘリコプターや飛行機のような、ドローンではない空を飛行する存在を知っています。おそらく、そうした知識をうまく組み合わせて、答えを導き出しているのだと思います。しかし、こういうことは、まだ人工知能が苦手とする部分です。個人的には、ここがクリアできると、だいぶ人工知能やロボットが人間に近づくのではないかと感じています。
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以上引用終了


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